地に足をつけ、黙々と坦々と。
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アダン(阿檀)  タコノキ科
学名:Pandanus odoratissimus
亜熱帯常緑灌木(じょうりょくかんぼく)。



一見、パイナップルのような果実がぶら下がっていますが、人が食べることはありません。
月夜の晩にヤシガニが、ひそかに食べているそうです。





陽光を浴びて、つやを放つ樹林帯は、美しい南国沖縄の景観を形成しています。
島々の浜辺に自生するアダンは、かつては人々の生活の大切な資源でもありました。
明治四十年代から大正十年代にかけ、アダン葉はパナマ帽の原料として、人々の生活を支えていました。
パナマ帽の製造は、一九〇〇年(明治三十三年)に児玉利吉(こだまとしきち)が那覇でアダンの葉を使ったタバコ入れや、手提げ鞄などを作っていたのにヒントを得た貿易業者・片山徳次郎が、漂白法と帽子の編み方を案出して専売特許を取ったことから、一躍クローズアップ。
需要が激増しました。

明治四十年代から貿易輸出品として盛んに製造され、大阪や東京に移出、さらにそこからアメリカをはじめヨーロッパにも輸出されました。
大正期に入ると、砂糖に次ぐ(つぐ)輸出品となり、一時代の沖縄の産業を支えました。
最盛期に、職工の数も三万を数えました。

製造法は、葉のトゲの部分を、板に釘を打ったサンピィキと呼ばれる器具で取り除き、幅一センチ三ミリほどの幅にさき、これを大きな鍋でゆがき、ガラス板の上に乗せてカンナの刃で肉質部をこそぎ、乾燥させた一メートルほどの繊維を漂白したものを原材料として使用したそうです(牧野清著『新八重山歴史』)。

それでパナマ帽を編みますが、多くは女子労働の手に頼り、女工たちは「帽子クマー」と呼ばれ、工場で集団で働いていました。
このため結核が流行し、沖縄版女工哀史を刻んだそうです。
若衆宿のように寝泊りすることもあったため、風紀が乱れたとして各家庭に材料を持ち帰って編むことを指導したことも。

第一次世界大戦時には海外への輸出がストップして、二万人もの女工が失業したこともありました。
隆盛を極めたパナマ帽製造も、大正末ごろから紙撚帽が出回るようになり、衰退していきました。

タコの足のような気根からは、丈夫な繊維が取れ、これで編んだヒモを、八重山地方ではアダナスと呼んでいます。
水や陽ざし(ひざし)にも強いところから、農家ではこれで畑に行くときの昼食(多くはイモ)入れのかごをつくりました。
アンツクと呼ばれています。
通気性がよいため、ムレる心配がなかったのですが、生活の変化で、いまでは使われることもなく、民芸品としておみやげ店で売られています。

物のない敗戦直後には、葉で編んだアダニパムス(阿旦葉筵)やアダン葉ゾーリがつくられました。
トゲをとった葉で粗く編んだムシロは見た目にも涼しく、ゾーリも清潔感があり、はき心地もよかったそうです。

アダンの葉といえば、これも八重山地方でのことですが、新芽をゆがいて味つけして食用としています。
たいていは法事などのような行事料理として用いられましたが、なぜその食習慣が八重山だけにあるのか。
王国時代に八重山に赴任してきた大和(やまと)在番(ざいばん)が、山菜の代用として食べたのが始まりでは、という説もあります。
そういえば、八重山ではオオタニワタリの新芽もゆがいて食べるので、あるいはそれと同じ食習慣かもしれません。
アダンやオオタニワタリの新芽は、いまでも石垣の市場で売られています。

近年、自然の砂浜がコンクリートの護岸に変わり、美しいアダンの樹林が消えていくのは、なんともさみしい限りです。
アダンこそは、白砂の浜の保護者であり、その消滅は砂浜の消滅を招来します。
アダンを守り育てることは、とりもなおさず沖縄を守ることだと思います。
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